伊勢崎教会の歴史

明治の宣教再開当時

 1873(明冶6)年2月、切支丹禁制の高札が撤去され日本における宣教も活発になりました。パリ外国宣教会ヴィグルー神父、カデイアック神父によって北関東の宣教も始まり、群馬県にも足跡をのばしていきました。ヴィグルー神父の年次報告書(1887年)に次のような一文が掲載されています。
「上野国境の小さな共同体は、今年の顕著な収穫である。」
 境の医師、斉藤とその家族や親戚が洗礼を受け、小さな共同体が誕生したのです。

大正時代~戦時中

 1923(大正12)年、内野作蔵神父が前橋教会に赴任されると、二ヶ月に一度くらい巡回ミサに境町に来られるようになりました。この頃、境町には洗礼を受けた定方市蔵一家が住んでいました。
 1931(昭和6)年、川田夫妻が伊勢崎における最初の信者家庭となり、宣教司牧の拠点となりました。内野神父は一ヶ月に一度くらい巡回ミサを行いました。
 1942(昭和17)年、戦争がますます激しくなり、外国人司祭はすべて拘留されることになりました。

活動再開

 1947(昭和22)年、ペトロ神父が前橋教会に着任し、伊勢崎の信者は前橋教会のミサに参加するようになりました。ペトロ神父はサイドカーに乗り、伊勢崎、尾島にも巡回されました。

フランシスコ会ニューヨーク管区

 1950(昭和25)年、フランシスコ会ニューヨーク管区の群馬県担当が決まり、アメリカから中国から多くの宣教師が来日し、宣教活動の準備を始めました。

伊勢崎教会献堂式

 1954(昭和29)年12月8日、内野教区長をお迎えし、献堂式が盛大に行なわれました。レジオマリエが中心となり、第三会、ボーイスカウトなどの活発な活動が続けられました。

成長する教会

 公会議が始まり、全世界の教会が現代世界への対応を検討し始めました。伊勢崎教会においても公会議の精神に沿うよう、いろいろの試みが行なわれました。そのためには、信者一人一人の自主性の教育が必要となりました。

自立する教会

 社会の変化により司祭の数も減り、信者の増加も望めなくなりました。教会は公会議の精神に沿う新しい歩みを始めだしました。すなわち、社会に開かれた教会、信者の積極的な使徒職への参加、財政面での自立等、受身から自立へと変化してゆきました。

あかつきの村難民受け入れ

 日本政府はベトナムからの難民受け入れを決定し、援助の協力者を求めていました。あかつきの村の石川神父は早速協力を申し出て、あかつきの村で受け入れることになりました。1982(昭和57)年、数十名のベトナム人が入村しました。