2015年四旬節教皇メッセージ

「心を固く保ちなさい」(ヤコブ58

親愛なる兄弟姉妹の皆様

四旬節は、全教会、各共同体、そして信者一人ひとりにとって心を新たにするときです。それは、とりわけ「恵みの時」(二コリント6・2)です。神は、ご自分がまだお与えになっていないものを、わたしたちに求めることはありません。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(一ヨハネ4・19)。神は、冷淡なかたではありません。神はわたしたち一人ひとりを心に留めておられます。そして、わたしたちを名前で覚えていて、わたしたちを気遣い、わたしたちが神から離れてしまったときはいつでも探してくださいます。神は一人ひとりのことを心にかけておられます。神はわたしたちを愛しておられるので、わたしたちに起きることに心を配らずにはいられません。わたしたちは通常、自分が 健康で快適に過ごしているときには、他の人々のことを忘れています(父なる神とはまったく違います)。他の人々の問題や苦しみ、彼らが耐え忍んでいる不正義などに関心を示さず、わたしたちの心は冷たくなっていきます。自分が程良く健康で快適であるうちは、不幸な人々のことは考えません。今日、無関心というこの利己的な態度が、無関心のグローバル化といえるほどに世界中に広まっています。  わたしたちは、キリスト者としてこの問題に取り組まなければなりません。

 神の民は、神の愛に心を向けるとき、歴史の中で絶えず生じている問題への答えを見いだします。もっとも緊急を要する問題の一つであり、わたしがこのメッセージの中で考えたいと思っているのが、まさにこの無関心のグローバル化です。

 わたしたちキリスト者も、隣人や神に対して無関心でいたいという強い誘惑にかられます。したがって、声を上げて目覚めさせてくれる預言者たちの叫びに、四旬節のたびにもう一度、耳を傾ける必要があります。  神はこの世に対して冷淡なかたではありません。神は、わたしたちを救うためにご自分の独り子をお与えになったほどにこの世を愛しておられます。神と人の間の門、天と地の間の門は、神の子が人となられ、この世に生き、死に、復活されたことのうちに完全に開かれます。教会とは、みことばを告げ知らせ、秘跡を行い、愛の実践を伴う信仰(ガラテヤ5・6参照)をあかしすることによって、この門を開いたままに保っている手のようなものです。しかし、この世は、自らの中に閉じこもり、神が世に来られ、世が神のもとに行くための扉を閉ざしてしまいがちです。ですから、その手、すなわち教会は、たとえ拒否されたり、押しつぶされたり、傷つけられたりしても、決して驚いてはなりません。

 したがって、神の民は、無関心になったり自らの中に閉じこもったりしないように、心を新たにしなければなりません。わたしは、心を新たにすることについて 考えるために、聖書の三つの箇所を示したいと思います。

1.「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しむ」(一コリント12・26)――教会

 神の愛は、無関心という致命的に閉じこもった状態を打ち砕きます。教会は、その教えと、とりわけあかしを通してわたしたちに神の愛を伝えます。しかし、わたしたちは、自分が体験したことしかあかしできません。キリスト者とは、神にいつくしみとあわれみを身につけさせていただいた者、神にキリストをまとわせていただいた者です。それは、キリストのように神と隣人に仕える者となるためです。 このことは、聖木曜日の典礼の中の洗足式にはっきりと表れています。ペトロは、イエスが自分の足を洗うことを望みませんでした。しかし、彼は後に、イエスは 互いに足を洗い合うことの模範を示そうとしただけではないことに気づきます。 まず自分の足をイエスに洗っていただいた者だけが、同じことを他者にもすることができます。イエスと「かかわり」(ヨハネ13・8)のある人だけが、人に奉仕することができるのです。

 四旬節は、キリストのようになるために、キリストの奉仕を受けるのにふさわしいときです。わたしたちは、みことばを聞き、諸秘跡、とりわけ聖体の秘跡にあずかるたびにキリストの奉仕を受けています。そのとき、わたしたちは自分が受けたもの、すなわちキリストのからだになります。このからだには、わたしたちがたびたび陥る無関心が入る余地はありません。なぜなら、キリストに属する者は皆、一つのからだの一部であり、キリストにおいて互いに無関心ではいられないからです。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(一コリント12・26)。

 教会が「聖徒の交わり」であるのは、教会に諸聖人がいるためだけでなく、教会が聖なるものの交わりだからです。神の愛は、キリストのうちに、そして神のすべてのたまもののうちに示されています。それらのたまものの中には、神の愛に触れていただいた人々の応答も含まれます。この聖徒の交わり、聖なるものの分かち合いの中では、だれもが独り占めせずに、すべてのものを他者と分かち合います。わたしたちは神のうちに一致しているので、はるか遠いところの人々、自分では決して行くことができない所にいる人々のために何かをすることができます。なぜなら、わたしたちすべてが神の救いの計画に開かれた者となるように、彼らとともに、彼らのために神に祈り求めるからです。

2.「お前の弟はどこにいるのか」(創世記4・9)――小教区と共同体

 普遍教会についてこれまで語ってきたことはどれも、小教区と共同体の生活に生かされなければなりません。こうした教会組織は、わたしたちが一つのからだの一部であることを体験できるものになっているでしょうか。それは、神がお与えになるものをともに受け、分かち合うことができるからだでしょうか。もっとも弱く、貧しく、小さな仲間を認め、配慮できるからだでしょうか。それとも、遠く離れた地域と関わりながらも、閉ざされた扉の前にうずくまっているラザロ(ルカ16・19-31参照)に目を向けないような全世界的な愛をよりどころにしているでしょうか。  神がお与えになるものを受け、豊かに実らせるために、わたしたちは目に見える 教会の限界を、二つの方法で越えなければなりません。

 第一に、天上の教会と祈りのうちに一つになることです。地上の教会が祈りをささげるとき、助け合いと善い行いの交わりが生まれます。神はそれをご覧になっています。神のうちに自分自身が満たされることを知っている諸聖人とともに、わたしたちはその交わりの一部を担います。そこでは、無関心が愛によって打ち負かされます。天上の教会は、この世の苦しみに背を向け、孤高の喜びのうちにあるから勝利の教会なのではありません。むしろ、諸聖人はイエスの死と復活を通して、無関心、かたくなな心、憎しみが完全に打ち負かされることを、すでに喜びのうちに観想しています。この愛の勝利が全世界を覆うまで、諸聖人は、わたしたちの巡礼の旅路に寄り添い続けます。教会博士であるリジューの聖テレジアはその信念を次のように記しています。地上に苦しみ、うめく人が一人でもいる限り、十字架上の愛の勝利を祝う天上の喜びは頂点に達することはありません。「わたしは、天国で何もせずにいるつもりはありません。わたしの望みは、引き続いて聖会と人々の霊魂のために働くことでございます」(手紙254、1897年7月14日〔『幼いイエズスの聖テレーズの手紙』福岡女子カルメル会訳、中央出版社〕)。

 わたしたちは諸聖人の功徳と喜びにあずかりますが、諸聖人もまた、平和と和解を求める行動と願いをわたしたちと共有しています。復活したキリストの勝利を祝う諸聖人の喜びは、無関心やかたくなな心を克服するために努力する力をわたしたちに与えます。第二に、すべてのキリスト教共同体は、出かけて行き、自らを取り巻く社会、貧しい人や遠く離れた人とかかわるよう求められています。教会はその本性上、宣教することを使命とします。教会は自らの中に閉じこもるものではなく、あらゆる国や人々のもとに派遣されているのです。

 教会の使命は、すべての被造物と人間を御父に引き寄せたいと望んでおられるかたを、たゆまずあかしすることです。教会の使命は、何もせずにはいられない愛をすべての人に届けることです。教会はイエス・キリストに従いつつ、あらゆる人々へと至る道を地の果てまで歩みます(使徒言行録1・8参照)。わたしたちは、隣人一人ひとりが兄弟姉妹であり、キリストは彼らのために死んで復活されたことを理解しなければなりません。わたしたち自身が受けたものは、隣人のために受けたものでもあります。同様に、兄弟姉妹がもっているものは、教会と全人類へのたまものでもあるのです。親愛なる兄弟姉妹の皆さん。教会のあるところが、とりわけ わたしたちの小教区や共同体が、無関心の海原のただ中でいつくしみの島々となることを、わたしは心から望んでやみません。

3. 「心を固く保ちなさい」(ヤコブ5・8)――一人ひとりのキリスト者

わたしたちは、一個人としても無関心になりがちです。人々の苦しみを伝える報道や衝撃的な映像が氾濫する中、わたしたちは自分には何も出来ないと感じてしまいます。こうした憂いと無力感の連鎖に捕らわれないためには、どうしたらよいでしょうか。

まず最初に、わたしたちは、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに祈ることができます。祈りのうちに結ばれた多く人々の声の力を軽んじてはなりません。こうした祈りの必要性の表れとして、わたしは、3月13日から14日の間に「主にささげる24時間」という取り組みが教会全体、そして教区レベルで行われるよう望みます。

 第二に、わたしたちは、愛の奉仕を行う多くの教会団体を通して、近くにいる人にも遠くにいる人にも愛のわざを行い、彼らの助けとなることができます。四旬節は、一つの人間家族の一員であることを少しでも具体的に表わすことによって、このように他の人々に心を配るのにふさわしい季節です。

 第三に、他者の苦しみは、回心への呼びかけです。なぜなら、他者が求めているものは、自分自身のいのちのはかなさと、自分は神と兄弟姉妹なしには生きられないことを思い出させてくれるからです。もし、神の恵みを謙虚に願い求め、自分の限界を受け入れるなら、神の愛がもつ無限の可能性を信頼し、自分や世界を自力で救えると考える悪しき誘惑に抵抗することができるでしょう。

 無関心さと、自分で何でもできるという思い上がりを克服するための一つの方法として、この四旬節を、教皇ベネディクト十六世が示したように心をはぐくむとき(回勅『神は愛』31参照)とすることを皆さんにお勧めしたいと思います。あわれみ深い心は弱い心ではありません。あわれみ深くなりたい人は皆、強く揺るぎない心、誘惑者を退け、神に開かれた心をもっています。聖霊に動かされることを受け入れる心、さらには兄弟姉妹に対する愛の道を歩む心です。それはつまり、貧しい心、すなわち自分の貧しさに気づき、自分を他者のためにささげる心なのです。

 兄弟姉妹の皆さん。この四旬節の間、「わたしたちの心をみ心にあやからせてください」(イエスのみ心の連祷)と主にともに祈りましょう。そうすれば、わたしたちは、強固で、あわれみ深く、細やかで寛大な心、自分の中に閉じこもることも、無関心のグローバル化にほんろうされない心をもつことができるでしょう。

 この四旬節の歩みが、すべての信者と教会共同体にとって実り豊かなものとなるよう祈ります。どうか皆さん、わたしのために祈ってください。主が皆さんを祝福し、聖母マリアが皆さんをお守りくださいますように。