"霊も 弱い私達を助けて下さいます。 私達は どう祈るべきかを知りません"ローマ8:26

 みなさん、私は 伊勢崎教会に派遣されてから、明日で 丸二年に なります。今、休みを取る前に 皆さんに 先ず 色々と ありがとうと伝えたいと思います。ご一緒に 神様の国で 働いていることは 大きな恵みです。今年は 私は 司祭叙階10周年を祝っています。司祭として 神様に選ばれたのは、言い表すことができないほどの喜びです。。皆さん、ご存知のように 誰しもすべての人と仲良くやっていくことは、簡単なことではありません。共同体の中で  司祭に対して 兄弟姉妹に対して 不平不満を抱くことがあるかもしれません。でも、愛に とどまっている人々は 福音の価値観に基づいて 洞察力を使って、生活をしますから、全てが変わると信じます。伊勢崎教会は 多国籍教会として 未来を持っています。今 社会は グローバル化しています。います。但し、イエスの教会は 既に最初から 普遍的に「普遍の教会」福音を広げているのです。

 今回の養成は 祈りの戦いです・カトリック教会のカテキズムから 幾つかの 教えを引用したいと思います。祈りの戦いの内容は 少し難しいので、実践する為に 努力をしなければならないので、必要ならば、何度も 同じ箇所を読み、理解し、味わってください。頭[理解]、心「感じる・留める」、手足「当て嵌める」ということです。

2725 祈りとは 恵みのたまものであり、わたしたちの側からのはっきりとした応答です。祈りにはつねに努力が伴います。キリスト以前の旧約の偉大な祈りの人たちをはじめ、神の母マリアや諸聖人たち、そしてキリストご自身が、祈りは 戦いであることを教えています。だれに対する戦いなのでしょうか。それは、わたしたち自身と、全力を挙げて 人間を祈りや神との一致から遠ざけようとする悪魔の策略とに対する戦いです。祈りと 生き方とは一体です。人は自分の祈りの内容に相応した生き方をするからです。つねに キリストの霊に従って行動することを望まないような人は、つねにキリストのみ名に  よって祈るということもできないでしょう。新しいいのちを生きるためのキリスト者の「霊的戦い」は、祈りの戦いでもあります。

2726 祈りの戦いにおいてわたしたちは、自分自身のうちでも、周りの人々に 対しても、祈りについてのさまざまな誤解と対峙しなければなりません。祈りは単なる心理的操作に過ぎないものだとか、解脱に至る精神集中の努力のことだなどと思っている人々がいます。また、ある人々は、祈りを儀式上の態度やことばにすぎないものだと考えます。さらに、多くのキリスト者は無意識のうちに、 祈りをするなどということはそもそも自分の務めとは両立できないものだと考えています。つまり、時間がないというのです。また、祈りによって神を探し求める人々であっても、祈りが自分の力だけではなく聖霊の助けによるものでもあるということを知らないので、早々に落胆してしまいます.

2727...祈りとは行動主義への反動であり、現実の世界からの逃避である(キリスト教的な祈りは 歴史からの逃避でも、生活との断絶でもありません)などという考え方のことです。

2728 さらに、祈りの戦いとは祈りの中でわたしたちを襲う挫折感との戦いでも  あります。それは、すさみからくる失望、「たくさんの財産」を持っているのですべてを主に差し出すことのできない悲しみ[1]、自分の望みどおりに願いが聞き入れられないと いう落胆、罪深さを考えてかたくなになる高慢の傷、祈りの無償性に対する反感などとの戦いです。祈って何の役に立つのか、と行きつくところはいつも同じです。これらの障害を克服するには、謙虚さと信頼と堅忍の精神をもって戦わなければなりません。

2729 祈りが難しいものだと感じるのは、ほとんどが散漫のためです.

2731 とくに真剣に祈ることを望む人々にとっての別の難題は、心の潤いがなくなることです。。。2733 思い上がりから生じるもう一つの誘惑は、倦怠感です。霊性に造詣が深い教父たちがこの語によって表しているのは、気の緩み、警戒心の減少、心の無頓着さなどからくる一種の精神的落ち込みの状態です。「心は 燃えても、肉体は弱い」(マタイ26・41)のです。落ちて来た所が高ければ高いほど痛みはより大きくなります。悲痛な失望というものは、思い上がりの裏返しです。謙虚な人は自分の惨めさに驚きません。その惨めさを認めることによって、人はいっそう大きな信頼へと導かれ、確信をもって堅忍 できるようになります。

  広い愛の心、私心にとらわれない心を持って、聖霊の促し/すすめに 素直に 従い、福音を伝え、自分の才能を惜しまずに 分かち合いましょう。お互いに祈り支え 合いましょう。御聖体は 私達の信仰生活になくてはならないので, 御聖体に生かされていきましょう。

ペドロ神父  キリストの聖体祭日